これまで述べてきたような解釈のあり方は、多分ふつうのファンの方には深読みのしすぎではないか?
...という印象を抱かれるかもしれませんね。
とくにある作詞家のファンであるという場合、作者の意図を最大限に尊重すべきだと考えられるのが、ごく自然なことかと思います。
...という印象を抱かれるかもしれませんね。
とくにある作詞家のファンであるという場合、作者の意図を最大限に尊重すべきだと考えられるのが、ごく自然なことかと思います。
私が高校時代、ある国語の先生は、教科書にある作品の微妙な表現の意味を生徒に訊かれると、
「作者に訊け!」とひとこと言って、ケリをつけるのが常でした。
今ではありえないような先生がけっこういましたね。
それに続くのが、生徒が作者に直接問い合わせる、という場合。
教科書に載っている谷川俊太郎の詩について、(実際の話)
「この言葉は、...という意味にも、...というふうにも受け取れるのですが、どちらが正しいのでしょうか?」
という質問に、谷川は「ぼくにも分かりません」と答えた。
すると今度は、生徒の国語担任から連絡があり、
「どちらかにしてもらわないと、試験の採点ができません」と、...
学校教育がいかに生徒や学生の頭をワンパターンに育て上げるかの見本ですね。
詩の核となることばは、ほとんどがインスピレーションのように降ってきます。
これは、様々な体験や知覚経験を、脳が自律的に整理して記憶野に納める働きに関係してきます。
そのことばは最初の一行である場合もあるし、
構成的な要因で最後のひとことであったり、
途中でさりげなく置かれたり。
ともかく、核になる言葉が生まれると、次のことばが引き寄せられ、
それを受けて次の言葉が出てくる。
この時、作者は自分に取り憑いたような、ある種のハイな精神状態になっていて、
その状態で生まれた言葉というのは、後から考えて、自分でもよく説明できないものがあります。
けれども、さらにそれを推敲する段階で、様々なレトリックを考えたりして意識的に構成する際に書かれた言葉は説明できる。
それにしても、決定稿に至るまでに、再び最初の精神状態を呼び戻して、手直しをした場合など、やはりよく説明できないものもある。
そういうものが入り交じっていると考えたほうが、実作から見れば真実に近いのだと、いえるようにおもいます。
特に、最初のインスピレーションで生まれた言葉などには、それ自体で完結している、といえるほどの時があります。
そういう言葉の場合、作者の説明をも跳ね返すのではないか。
あるいは、説明しだしたらきりがなくなる。
かくして、できあがった作品は、発表されたときから、作者を離れて表現それ自体で自立していく。
ですから、すでに発表してしまった作品について、作者が解説するとかいうことはほとんどないわけです。
そこで、こんどは読みの問題が加わってきます。
かつての解釈の基本的な考え方は、作者の表現意図をいかに読み取るか、
...という受動的な読み取りを旨としていました。
国文学研究とか外国文学研究とか、いわゆるアカデミズムの学者の考え方ですね。
そこでは、独創的な解釈は明確な根拠がないかぎり保留され、
重箱の底をつつくような些末なことの実証的研究に埋没していく。...
たとえば、大岡信の万葉集や古今和歌集の著作と、岩波古典文学大系とを読み比べれば、アカデミズムの砂をかむような舌触りが明確に感じられるでしょう。
(けれども、大岡信や安東次男、吉本隆明らの仕事は、アカデミズムの文献を最大限に参照して、なされます。無意味だというつもりは毛頭もありません。文化的遺産ですから、ありがたく利用させていただきます)
問題なのは、
そういうアカデミズムにごく一部触れた程度の庶民レベル知的ミーハーは、
その流れとして、我田引水的な引用や解釈はダメだと、
自分はなんら深い解釈もできずに、表面的な理解で批判的な言辞を弄することでしょう。
石川ひとみ『秘密の森』の解釈の時に、YouTube あたりに集う一次言語スピーカーが、
「深読みだ、過剰な思い入れをしている」という軽薄な批判をしていますけれど、
何度も啓蒙的な文章を書くのは徒労ですから、あら かじめ前置きをしておきます。
...そういう伝統を革新するように、
ソシュール言語学は言葉をそれ自体、固有の秩序をもつひとつの体系だととらえ、自立性をもつものだと考えました。
言語は記号(シーニュ)の組織された体系であり、
記号表現=意味するもの(シニフィアン)と、
記号内容=意味されるもの(シニフィエ)という、
...不可分の二面性をもつ、と。
ソシュールのシーニュというのはただの単語を意味しているのではなく、
言語表現であり言述であり、テクスト自体でもある、とされます。
上図で、一次言語といっているのは、辞書的な既製の言語を意味します。
二次言語というのは、その表現面であるシニフィアン b が、既製の一次言語からなるような言葉であり、
その意味される内容であるシニフィエが、辞書的な既製の意味体系にはなかった新しい意味であるコノテーションをもつ言語だということですね。
コノテーション(共示的意味)というのは、デノテーション(外示的意味)と共に、言語の意味論の中で用いられます。
デノテーションは、簡略な辞書的意味、つまり語の最大公約数的で抽象的な意味のことです。
コノテーションは、語のもつ個人的・状況的意味になりますが、丸山圭三郎によれば3種類に分けられるのだ、と。
第一のコノテーションは、デノテーション以外に付随してくる個人個人の経験や思想がもたらす思い入れ的な意味あいですね。
第二のコノテーションは、その社会のある時期に色づけされる共同主観的付随概念。
現在でいえば、「アングロ・サクソンにならなければ、アングロ・サクソンと対抗できない」などという表現です。
最初のアングロ・サクソンは、徹底的な論理思考を持ち、明確な事業戦略を構築できる能力を持つグローバルなビジネス人種という意味であり、次のアングロ・サクソンは、イギリス・アメリカ人一般をさしているでしょうか。
第三のコノテーションは、既製の意味体系・シンタックスの中に閉じ込められていく人間の意識を、言葉の本質的表現作用を通して解放する主体的なアプローチをいいます。
私はフッサールの現象学を学んで、デカルト的コギトの内包する先入見を排して、現象学的還元から思考するという意識がありますので、コノテーションの分類に納得がいきますね。
こうして、ソシュールから、ロラン・バルト、ジェラール・ジュネット、モーリス・ブランショ、バシュラール
そしてジャック・デリダという現代フランスの言語学的哲学の流れが、
まったく新しい表現と解釈学の世界を切り開いています。
現在の現代詩(過去の現代詩に対して)を書いている第一線の人たちは、ほとんどがこういうものを踏まえていて、彼らの詩論などを読むと、おフランス語が頻繁に出てきて、読むのに一苦労するのだ。
そんな中で、デリダは「意味は表現に固有のものと信じられてきたが、
読むことによって表現の意味の変形が必然的に伴う。
したがって、読むことと意味との無眼の往復運動がそこにはあるだけだ」という差延作用を主張し、
従来の意味概念を解体する考えを示した、とされる。
...とされる
...サルトルやメルロ・ポンティなどフランス語の言い回しがどうも感覚的に理解しにくく、好みではない。
...ので上に上げた人たちの本はすべて読みかけのままホコリをかぶっています。
デリダは購読したこともない。ので、間接的にしかいえない。後れているのだ。
のですが、アマゾンを覗いてみると、
『デリダ』-脱構築-
内容(「BOOK」データベースより)
「形而上学や伝統が、
内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然 /技術、男/女、西洋/非西洋などと
階層秩序的二項対立を立て、支配的な項の純粋現前を追求することには、
そうした思考ではとらえられない「他者」を排除する欲望が潜んでおり、
脱構築的思考はその欲望を暴き出そうとする。
しかし脱構築とは否定に終始するニヒリズムではなく、
他者を他者として受け入れ、その呼びかけに応え、決して現前しない「正義」の到来を志向する。
それは哲学、芸術から政治、倫理、法、宗教などあらゆる営為をとらえ直す、
ラディカルな「肯定」の運動である」
(...などというのに釣られて、とりあえずいくつか買い込んで、読んでみようと思う。
でもその前に、ホコリをかぶっているおフランス語の皆様の本を読まなければ、たどり着けない。
ソシュール小辞典も買ったし、あと数年は時間をとられるかも。
デリダは、ドイツ哲学のフッサール、ハイデッガーの批判的継承者の流れだというので、
当然私の考え方とつながる部分もあるかと思いますが、我が国のデリダ系の人たちは好みではない)
有益なコメントを頂くと、理解も考えも深まります。
でも、ここから先になると、だれも読まなくなるでしょう。
「作者に訊け!」とひとこと言って、ケリをつけるのが常でした。
今ではありえないような先生がけっこういましたね。
それに続くのが、生徒が作者に直接問い合わせる、という場合。
教科書に載っている谷川俊太郎の詩について、(実際の話)
「この言葉は、...という意味にも、...というふうにも受け取れるのですが、どちらが正しいのでしょうか?」
という質問に、谷川は「ぼくにも分かりません」と答えた。
すると今度は、生徒の国語担任から連絡があり、
「どちらかにしてもらわないと、試験の採点ができません」と、...
学校教育がいかに生徒や学生の頭をワンパターンに育て上げるかの見本ですね。
詩の核となることばは、ほとんどがインスピレーションのように降ってきます。
これは、様々な体験や知覚経験を、脳が自律的に整理して記憶野に納める働きに関係してきます。
そのことばは最初の一行である場合もあるし、
構成的な要因で最後のひとことであったり、
途中でさりげなく置かれたり。
ともかく、核になる言葉が生まれると、次のことばが引き寄せられ、
それを受けて次の言葉が出てくる。
この時、作者は自分に取り憑いたような、ある種のハイな精神状態になっていて、
その状態で生まれた言葉というのは、後から考えて、自分でもよく説明できないものがあります。
けれども、さらにそれを推敲する段階で、様々なレトリックを考えたりして意識的に構成する際に書かれた言葉は説明できる。
それにしても、決定稿に至るまでに、再び最初の精神状態を呼び戻して、手直しをした場合など、やはりよく説明できないものもある。
そういうものが入り交じっていると考えたほうが、実作から見れば真実に近いのだと、いえるようにおもいます。
特に、最初のインスピレーションで生まれた言葉などには、それ自体で完結している、といえるほどの時があります。
そういう言葉の場合、作者の説明をも跳ね返すのではないか。
あるいは、説明しだしたらきりがなくなる。
かくして、できあがった作品は、発表されたときから、作者を離れて表現それ自体で自立していく。
ですから、すでに発表してしまった作品について、作者が解説するとかいうことはほとんどないわけです。
そこで、こんどは読みの問題が加わってきます。
かつての解釈の基本的な考え方は、作者の表現意図をいかに読み取るか、
...という受動的な読み取りを旨としていました。
国文学研究とか外国文学研究とか、いわゆるアカデミズムの学者の考え方ですね。
そこでは、独創的な解釈は明確な根拠がないかぎり保留され、
重箱の底をつつくような些末なことの実証的研究に埋没していく。...
たとえば、大岡信の万葉集や古今和歌集の著作と、岩波古典文学大系とを読み比べれば、アカデミズムの砂をかむような舌触りが明確に感じられるでしょう。
(けれども、大岡信や安東次男、吉本隆明らの仕事は、アカデミズムの文献を最大限に参照して、なされます。無意味だというつもりは毛頭もありません。文化的遺産ですから、ありがたく利用させていただきます)
問題なのは、
そういうアカデミズムにごく一部触れた程度の庶民レベル知的ミーハーは、
その流れとして、我田引水的な引用や解釈はダメだと、
自分はなんら深い解釈もできずに、表面的な理解で批判的な言辞を弄することでしょう。
石川ひとみ『秘密の森』の解釈の時に、YouTube あたりに集う一次言語スピーカーが、
「深読みだ、過剰な思い入れをしている」という軽薄な批判をしていますけれど、
何度も啓蒙的な文章を書くのは徒労ですから、あら かじめ前置きをしておきます。
...そういう伝統を革新するように、
ソシュール言語学は言葉をそれ自体、固有の秩序をもつひとつの体系だととらえ、自立性をもつものだと考えました。
言語は記号(シーニュ)の組織された体系であり、
記号表現=意味するもの(シニフィアン)と、
記号内容=意味されるもの(シニフィエ)という、
...不可分の二面性をもつ、と。
ソシュールのシーニュというのはただの単語を意味しているのではなく、言語表現であり言述であり、テクスト自体でもある、とされます。
上図で、一次言語といっているのは、辞書的な既製の言語を意味します。
二次言語というのは、その表現面であるシニフィアン b が、既製の一次言語からなるような言葉であり、
その意味される内容であるシニフィエが、辞書的な既製の意味体系にはなかった新しい意味であるコノテーションをもつ言語だということですね。
コノテーション(共示的意味)というのは、デノテーション(外示的意味)と共に、言語の意味論の中で用いられます。
デノテーションは、簡略な辞書的意味、つまり語の最大公約数的で抽象的な意味のことです。
コノテーションは、語のもつ個人的・状況的意味になりますが、丸山圭三郎によれば3種類に分けられるのだ、と。
第一のコノテーションは、デノテーション以外に付随してくる個人個人の経験や思想がもたらす思い入れ的な意味あいですね。
第二のコノテーションは、その社会のある時期に色づけされる共同主観的付随概念。
現在でいえば、「アングロ・サクソンにならなければ、アングロ・サクソンと対抗できない」などという表現です。
最初のアングロ・サクソンは、徹底的な論理思考を持ち、明確な事業戦略を構築できる能力を持つグローバルなビジネス人種という意味であり、次のアングロ・サクソンは、イギリス・アメリカ人一般をさしているでしょうか。
第三のコノテーションは、既製の意味体系・シンタックスの中に閉じ込められていく人間の意識を、言葉の本質的表現作用を通して解放する主体的なアプローチをいいます。
私はフッサールの現象学を学んで、デカルト的コギトの内包する先入見を排して、現象学的還元から思考するという意識がありますので、コノテーションの分類に納得がいきますね。
こうして、ソシュールから、ロラン・バルト、ジェラール・ジュネット、モーリス・ブランショ、バシュラール
そしてジャック・デリダという現代フランスの言語学的哲学の流れが、
まったく新しい表現と解釈学の世界を切り開いています。
現在の現代詩(過去の現代詩に対して)を書いている第一線の人たちは、ほとんどがこういうものを踏まえていて、彼らの詩論などを読むと、おフランス語が頻繁に出てきて、読むのに一苦労するのだ。
そんな中で、デリダは「意味は表現に固有のものと信じられてきたが、
読むことによって表現の意味の変形が必然的に伴う。
したがって、読むことと意味との無眼の往復運動がそこにはあるだけだ」という差延作用を主張し、
従来の意味概念を解体する考えを示した、とされる。
...とされる
...サルトルやメルロ・ポンティなどフランス語の言い回しがどうも感覚的に理解しにくく、好みではない。
...ので上に上げた人たちの本はすべて読みかけのままホコリをかぶっています。
デリダは購読したこともない。ので、間接的にしかいえない。後れているのだ。
のですが、アマゾンを覗いてみると、
『デリダ』-脱構築-
内容(「BOOK」データベースより)
「形而上学や伝統が、
内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然 /技術、男/女、西洋/非西洋などと
階層秩序的二項対立を立て、支配的な項の純粋現前を追求することには、
そうした思考ではとらえられない「他者」を排除する欲望が潜んでおり、
脱構築的思考はその欲望を暴き出そうとする。
しかし脱構築とは否定に終始するニヒリズムではなく、
他者を他者として受け入れ、その呼びかけに応え、決して現前しない「正義」の到来を志向する。
それは哲学、芸術から政治、倫理、法、宗教などあらゆる営為をとらえ直す、
ラディカルな「肯定」の運動である」
(...などというのに釣られて、とりあえずいくつか買い込んで、読んでみようと思う。
でもその前に、ホコリをかぶっているおフランス語の皆様の本を読まなければ、たどり着けない。
ソシュール小辞典も買ったし、あと数年は時間をとられるかも。
デリダは、ドイツ哲学のフッサール、ハイデッガーの批判的継承者の流れだというので、
当然私の考え方とつながる部分もあるかと思いますが、我が国のデリダ系の人たちは好みではない)
有益なコメントを頂くと、理解も考えも深まります。
でも、ここから先になると、だれも読まなくなるでしょう。
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