YouTube の動画をかってに引用させていただいているのに、非妥協的なことを平気で書くお子様なわたしですので、今回はひとりごとで話を発展させていきたいとおもいます。
はじめに、前回書ききれなかった映像性です。
「あのまなざしは 焼きついてたのに」
私が思い浮かべるのはTVや映画の二重写しのシーンですね。
彼がゆっくりと顔をそむけて街の灯を見入る
→それにあわせて、映像が次第に薄くなる。
そこに、笑っている写真の彼の顔が、
初めはうっすらと、そして次第に鮮明になっていき、二重写しとなる。
と、まあこのような映像表現が成立するためには、
・私はじっと、あなたの目を見つめ続けている
・彼は目をそらして、顔もそむける
→その横顔に、写真のあなたのイメージが重なって、対比を見せる
...ということがないと、「去年(こぞ)の雪 今いずこ」の対比的映像表現とはなりにくい、と考えたほうが真相に近いと思います。
「私」が街を振り向いてしまうと、視点が移動して、二重写しのイメジが成立しにくくなるし、拡散霧消していくのではないかな。
それとも、作者がそこまでは考えておらず、テレビでよくある「主人公が相手から顔をそむけ自分の内面的な世界に入ってしまう、つまり哀しみをこらえる」シーンを表現しただけなのか、と。(ありきたりですね)
そういう解釈になると、3番の歌詞は演歌的な抒情を都会的なシチュエーションに移し替えて、シャレた映画ふうに書いただけのもの、という評価にならざるを得ないのではないかと、わたしなどは考えてしまうけどね。
そのように、1番、2番、3番が同じような流れで平板に来ていると考えれば、それは散文的な表現であるし、すなわち語り物の表現だといってよいのでしょうね。
それは散文脈であり、すなわち、詩的表現性に乏しい、ということになる。
物語性が豊かだ、という褒めことばは、詩人にとってははなはだ不都合な真実となってしまうかもしれない。
少なくとも現代詩人にとっては、冷笑されているのと同じでしょうね。(←「と考えたほうが真相に近いと思います」とか、いわないと、きつすぎてダメなのだな...)
じつは昨日、ヤフオクで落札した現代詩読本を読んでいまして、
大岡 信 詩とことば
谷川俊太郎 詩とうた
田村隆一 詩と都市
三木 卓 詩と生活
中村 稔 詩と形式
山本太郎 詩と韻律
入沢康夫 詩と体験
渋沢孝輔 詩と批評
鮎川信夫 詩と時代
吉本隆明 詩と古典
(プロ野球の画面をあっちこっち切り替えながら)ずらっと、本を斜め読みをしていると、最後の吉本の文章にぎくりとなりました。
以下、昨日のメモを記しておきます。
どうも、私は吉本隆明の言葉に追い回されている。
ように感じることが、ときどきある。
自分がいろいろと思いをめぐらしているときに、待ち構えていたかのように吉本隆明の文章に出会い、
...というふうにかんがえられたほうが真相に近いとおもいます。」という高説に、そうよ!と思わずにんまりして、
そのあとこん畜生と腹が立つ。
詩と古典...評価の条件 吉本隆明
「そうすると、『新古今集』というのは、現在論じられているイメージでは大変衰弱した内容を持った詩の世界だという評価と、いや、高級であり、かつ絢爛豪華な世界であるというような塚本(邦雄)的な評価の仕方、その両方とも違うんだということなんです。
当時の俗謡から徹底的に追い詰められたところで『新古今集』というのは成り立っています。逆にいいますと、『新古今集』の世界というのは、俗謡に大変近い世界だということです。そういうふうにかんがえ、評価されたほうがおそらくは真相に近いとおもいます。(中略)
だから、当時の『新古今集』の世界を支配している感性的表現は俗謡に近い世界なんで、いまでいいますと、フォークソングみたいなものに近い世界なんだと理解されたほうが、『新古今集』に対する理解としては正しいとおもいます。」
以下、長くなりますので要約させていただきます。
「『新古今集』は、当時の大衆社会化現象であり、いわゆる純文学と大衆文学との区別がつかなくなる。そういう状況の中で、強靱に詩の世界を固執しようとしたばあいに、出てくる出方のひとつが、主題を狭めるということです。主題を狭め、昇華作用をやっていくことで、文学の質を確保しようという意味を持っています。
歌が始まるばあいには対象を大きくとって、それをだんだんイメージで追い詰めていって、微細なところまでいくというのが『新古今集』の全般的な特徴です。
そういうようにイメージをずうっと細く細く追い詰めていかないで、ちょっとでも拡散させてしまえば俗謡とさして変わりなきものになっちゃうんです。」
この文章で、古典一般を現代詩、俗謡を歌謡曲、フォークソングを松本隆の歌詞と置き換えて考えると、図式的に過ぎますけれど、むこうとこっちの違いがかなり理解できるように思う。



これが「三枚の写真」とどうつながってくるのか、といえば、表現の追い詰め方だということですね。
すでにできてしまっている歌詞ですから、書き直すわけにはいかない。
それならば解釈を深めて、2番でイメジを引き締めて、女性にとって永遠の感情を、歌唱力で表現して、
3番の歌詞は淡々と後書きのように歌ってしまえば、移ろいと永遠というものをダブルイメジでとらえ、総体的に見ている幽玄の一曲となる、
というようにプロデュースできたら、かなりかなり深い、大人の歌になったのではないかな、ということです。
もっとも、大人すぎて50歳くらいで歌ってもいいくらいになってしまいますけどォー、それを21歳の石川ひとみちゃんが歌う、そういうのを聴いてみたかったということです。
「あのまなざしは 焼きついてたのに」
私が思い浮かべるのはTVや映画の二重写しのシーンですね。
彼がゆっくりと顔をそむけて街の灯を見入る
→それにあわせて、映像が次第に薄くなる。
そこに、笑っている写真の彼の顔が、
初めはうっすらと、そして次第に鮮明になっていき、二重写しとなる。
と、まあこのような映像表現が成立するためには、
・私はじっと、あなたの目を見つめ続けている
・彼は目をそらして、顔もそむける
→その横顔に、写真のあなたのイメージが重なって、対比を見せる
...ということがないと、「去年(こぞ)の雪 今いずこ」の対比的映像表現とはなりにくい、と考えたほうが真相に近いと思います。
「私」が街を振り向いてしまうと、視点が移動して、二重写しのイメジが成立しにくくなるし、拡散霧消していくのではないかな。
それとも、作者がそこまでは考えておらず、テレビでよくある「主人公が相手から顔をそむけ自分の内面的な世界に入ってしまう、つまり哀しみをこらえる」シーンを表現しただけなのか、と。(ありきたりですね)
そういう解釈になると、3番の歌詞は演歌的な抒情を都会的なシチュエーションに移し替えて、シャレた映画ふうに書いただけのもの、という評価にならざるを得ないのではないかと、わたしなどは考えてしまうけどね。
そのように、1番、2番、3番が同じような流れで平板に来ていると考えれば、それは散文的な表現であるし、すなわち語り物の表現だといってよいのでしょうね。
それは散文脈であり、すなわち、詩的表現性に乏しい、ということになる。
物語性が豊かだ、という褒めことばは、詩人にとってははなはだ不都合な真実となってしまうかもしれない。
少なくとも現代詩人にとっては、冷笑されているのと同じでしょうね。(←「と考えたほうが真相に近いと思います」とか、いわないと、きつすぎてダメなのだな...)
じつは昨日、ヤフオクで落札した現代詩読本を読んでいまして、
大岡 信 詩とことば
谷川俊太郎 詩とうた
田村隆一 詩と都市
三木 卓 詩と生活
中村 稔 詩と形式
山本太郎 詩と韻律
入沢康夫 詩と体験
渋沢孝輔 詩と批評
鮎川信夫 詩と時代
吉本隆明 詩と古典
(プロ野球の画面をあっちこっち切り替えながら)ずらっと、本を斜め読みをしていると、最後の吉本の文章にぎくりとなりました。
以下、昨日のメモを記しておきます。
どうも、私は吉本隆明の言葉に追い回されている。
ように感じることが、ときどきある。
自分がいろいろと思いをめぐらしているときに、待ち構えていたかのように吉本隆明の文章に出会い、
...というふうにかんがえられたほうが真相に近いとおもいます。」という高説に、そうよ!と思わずにんまりして、
そのあとこん畜生と腹が立つ。
詩と古典...評価の条件 吉本隆明
「そうすると、『新古今集』というのは、現在論じられているイメージでは大変衰弱した内容を持った詩の世界だという評価と、いや、高級であり、かつ絢爛豪華な世界であるというような塚本(邦雄)的な評価の仕方、その両方とも違うんだということなんです。
当時の俗謡から徹底的に追い詰められたところで『新古今集』というのは成り立っています。逆にいいますと、『新古今集』の世界というのは、俗謡に大変近い世界だということです。そういうふうにかんがえ、評価されたほうがおそらくは真相に近いとおもいます。(中略)
だから、当時の『新古今集』の世界を支配している感性的表現は俗謡に近い世界なんで、いまでいいますと、フォークソングみたいなものに近い世界なんだと理解されたほうが、『新古今集』に対する理解としては正しいとおもいます。」
以下、長くなりますので要約させていただきます。
「『新古今集』は、当時の大衆社会化現象であり、いわゆる純文学と大衆文学との区別がつかなくなる。そういう状況の中で、強靱に詩の世界を固執しようとしたばあいに、出てくる出方のひとつが、主題を狭めるということです。主題を狭め、昇華作用をやっていくことで、文学の質を確保しようという意味を持っています。
歌が始まるばあいには対象を大きくとって、それをだんだんイメージで追い詰めていって、微細なところまでいくというのが『新古今集』の全般的な特徴です。
そういうようにイメージをずうっと細く細く追い詰めていかないで、ちょっとでも拡散させてしまえば俗謡とさして変わりなきものになっちゃうんです。」
この文章で、古典一般を現代詩、俗謡を歌謡曲、フォークソングを松本隆の歌詞と置き換えて考えると、図式的に過ぎますけれど、むこうとこっちの違いがかなり理解できるように思う。
これが「三枚の写真」とどうつながってくるのか、といえば、表現の追い詰め方だということですね。
すでにできてしまっている歌詞ですから、書き直すわけにはいかない。
それならば解釈を深めて、2番でイメジを引き締めて、女性にとって永遠の感情を、歌唱力で表現して、
3番の歌詞は淡々と後書きのように歌ってしまえば、移ろいと永遠というものをダブルイメジでとらえ、総体的に見ている幽玄の一曲となる、
というようにプロデュースできたら、かなりかなり深い、大人の歌になったのではないかな、ということです。
もっとも、大人すぎて50歳くらいで歌ってもいいくらいになってしまいますけどォー、それを21歳の石川ひとみちゃんが歌う、そういうのを聴いてみたかったということです。
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