松本隆の記事で、わたしの聞き間違いの箇所がありましたので、訂正をしたいと思います。
「曲に後から歌詞を当てはめるのは、日本独特のやり方だ」というのが実際の発言のようですね。
けれども、この発言自体が、正しいとは言えません。
「曲に後から歌詞を当てはめるのは、日本独特のやり方だ」というのが実際の発言のようですね。
けれども、この発言自体が、正しいとは言えません。
そもそも海外ポップスを翻訳して受け入れる非欧米語圏では、曲に歌詞を当てはめる文化が広まっています。
そうでなくとも、楽器で民謡のような曲を弾いて唄う旅芸人とかは、旅先の土地柄に合わせた歌詞を当てはめて唄を歌っており、大衆音楽としては一般的に見られるやりかたです。
ただし、日本の歌謡曲のように曲が先で、歌詞が後という割合が高いというのは、やはり日本独特な事は確かです。
それはなぜかというと、日本語には外国語のように韻を踏むというような形式上の制約がなく、後からいくらでも自由に当てはめることができるからですね。
欧米のように言葉そのものに音楽的要素を持つ場合、曲に歌詞を当てはめるのは相当に難しい作業となります。
歴史的に見ても、まずすぐれた詩があって、その詩に感動した作曲家が曲をつけるというのが歌曲の発生の原点ですね。
バッハやモーツアルト、ハイドンのような古典の時代は、何ものをも叙述しない純然たる音楽(絶対音楽)であり、その形式美がメインでした。

そうでなくとも、楽器で民謡のような曲を弾いて唄う旅芸人とかは、旅先の土地柄に合わせた歌詞を当てはめて唄を歌っており、大衆音楽としては一般的に見られるやりかたです。
ただし、日本の歌謡曲のように曲が先で、歌詞が後という割合が高いというのは、やはり日本独特な事は確かです。
それはなぜかというと、日本語には外国語のように韻を踏むというような形式上の制約がなく、後からいくらでも自由に当てはめることができるからですね。
欧米のように言葉そのものに音楽的要素を持つ場合、曲に歌詞を当てはめるのは相当に難しい作業となります。
歴史的に見ても、まずすぐれた詩があって、その詩に感動した作曲家が曲をつけるというのが歌曲の発生の原点ですね。
バッハやモーツアルト、ハイドンのような古典の時代は、何ものをも叙述しない純然たる音楽(絶対音楽)であり、その形式美がメインでした。

やがて、そのような理知的形式美の音楽ではなく、詩情や情念を音楽的に表現する標題音楽といわれる表現的・描写的音楽が台頭してきます。
たとえばベルリオーズの「幻想交響曲」では、「一芸術家の生活の挿話」という標題が付いている。
ここから、次の時代の「歌曲」という詩に曲をつけた音楽が流行していきます。
その先駆けとなったのがシューベルトで、知的・古典的なゲーテの詩に、ウイーン古典派的色彩の強い曲をつけ、ドイツ・ロマン派の流れをつくりました。ゲーテの詩だけで70曲ほどの歌曲を作っています。
ゲーテの詩は、緻密で明晰な韻の構成があり、動詞の機能や計算しつくされた表象の結合、文の連結など、詩自体で完全な自立性があり音楽的な要素も兼ね備え、なにも付け加える必要などない完結したものです。(詩というのは本来がそういう表現形式です)
完璧といってよいゲーテの詩の言語構造に沿わせて、シューベルトは音楽的構造(音声的、意味的、感情的要素)を一致させる曲作りをしました。
そのような古典的で知性が勝るシューベルトに対して、文学青年だったシューマンは飽きたらず、魅力的な恋愛詩を書き始めた若きハインリッヒ・ハイネの詩に美しいメロディーを付与した歌曲を書き始めます。
ハイネは大人(たいじん)ゲーテを評して「ゲーテのすぐれた詩がもつ自立的な価値は否定しないが、ルーブルにある冷たい大理石の古代彫刻(ギリシャ彫刻)はゲーテの詩を思い出させる。ゲーテの詩も全く同様に "完成されたもの" であり、同様にすばらしく、同様に静かであるが、それは冷えて凝固し、今という時間の生き生きとした温もりのある生活から切り離されている。」と挑戦状をたたきつけている。(『ドイツ・ロマン派』)
まあ、ハイネの恋愛詩は青春文学であり、ゲーテ的な大人の詩は高尚すぎる純芸術と感じられたということだろう。シューマンとハイネの歌曲は、日常的な物語性を音楽的に表現したという特徴があります。
ドイツ語や英語はリズム的に見ると母音の強弱によって成立するのに対して、フランス語やイタリア語はシラブルといわれる「母音、あるいは母音+子音の組み合わせ」である音節の数で成立しています。
フランス歌曲は象徴主義詩人のヴェルレーヌらの詩に対応して、フランス印象派を形成していきました。
象徴主義詩人らは言葉の指示表出性である意味的な叙述よりも、言葉のリズムとハーモニーが喚起する自己表出的意味性を重視する。
上のメモ書き(マインドマップの左側の一部分ですので、右から左に枝分かれして行きます)でも分かるように、ヴェルレーヌの詩にはドビッシーやフォーレが競うように曲をつけていますし、ドビッシーはマラルメの詩にも曲をつけています。
ドビッシーは長調や短調という調性の縛りを解き放ち、繁茂な転調から、さらには多調性音楽への道を切り開き、ストラビンスキーや、無調性音楽のドイツ表現主義の先駆けとなります。
このような西洋クラシック音楽の歴史を見てみると、歌曲は第一級の詩人の詩に作曲家が創作意欲を刺激され曲を付け始め、やがてシューベルトにいたっては詩の音楽的要素が彼の音楽の実体と化すまで結びついた、という経緯があるわけですね。
歌曲になった詩は本来が詩自体で完結・自立しており、曲は後からつけられたものであるから、元となった詩の芸術的価値を損なうような曲作りはNo good.だという文化的な了解が欧米には存在しているということがあります。
しかるに、ポピュラー音楽というのはその出発点からして、芸術的な表現として作られているのではなく、商業ベースで「売れる」という価値観で作られていますから、歌曲やオペラとは全く別な音楽なのですね。
わたしが「ファン意識のマーケティング」で分析したように、マーケットの一番需要の大きい領域をターゲットにして、音楽的ニーズ&ウオンツをさぐり出し、作詩・作曲の基準を設定していく。
その意味では、慶応大学の女学生が「作詞はマーケティングだと思っている」という話は全くその通りなのだと思う。作詩だけでなく、作曲・編曲も歌手のプロデュース&プロモーションも、全部がマーケティングなのです。
松本隆は、アメリカ人のようなプラグマティズム的思考には馴染んではおらず、詩人としての感性で作詩をしていると主張したいのかと思いますが、現実には自分自身の感性がマーケティングのアンテナとして無自覚的に働いている、ということなのでしょう。
歌手が歌うことを前提にして、商業音楽業界で作詞家としてやっているという環境を考えれば、それを無視した作詞などできるはずもない。
大衆の好みの平均値あるいはマクシマムなニーズ&ウオンツに応える歌詞を書いているということ自体が「マーケティングという、観音様の掌の上」(孫悟空が誤認した世界の果て)での営為なのだ、といってよい。
蛇足ながら付け加えておきますと、音楽は作る人たちと、演奏する/歌う人たち、鑑賞する人で成り立っていますけれど、鑑賞する態度にも主知的に理解する傾向と情緒的に受容する傾向がありますね。
これはあくまでも程度の問題であり、二種類の対立があるわけではない。
音楽学者の福井栄一郎先生が、「学生の中には、音楽は聞き流せばそれでよいのであって、学問として堅苦しく論じる必要はないのではないか」という素朴な疑問を持つ学生も少なくないことに気づいている」と書いています。
先生は「音楽の表面だけなでるのではなく、その裏に潜むそら恐ろしい奥行きの広さ深さを知ってもらいたい」と述べておられます。
歌謡曲ですから、ワーグナーのような際限なく広い世界はありませんけれど、自分の理解力のレベルでしか鑑賞できないということは自覚しておいた方がよい、と。
わたしは現代詩の世界の人間ですから、やはり作詞の技に目がいく度合いは強くなります。
詩では、たとえば「てをには」のような、それ自体にほとんど意味のない助詞でさえ、高度な自己表出を担わされている場合があります。
まちぶせ解説などで、そういう部分を指摘していますけれど、そういう意味が分かっているか分かっていないかで、歌の意味性が大きく違ってくる。
分からない人は、枝葉末節な事を指摘すると感じるのでしょうが、歌詞を書いている者は「意味的な違いを明確にしているのに、誤読しているな」ということになるのですね。
それで、自己陶酔で聴いている人を(イヤフォンやヘッドフォンなどの)ヘッドセットをつけた猿、とか書いてしまったりしてますが、根が一言居士ですので申し訳ないなと思いまして、「サル」改め「ロマン派」と訂正しておきます。
若い人と大人、年寄りと年代的な感じ方が違ってきますから。
わたしは14歳の頃にゲーテを読み、20歳のころにハイネを読みましたから、完全に読む時を間違えているという経験があります。逆でなければいけなかったのですけどね。
大人になっても自己陶酔的鑑賞しかできない方は、ただのロマン派ではなく、ドイツ・ロマン派とでも。
自分自身ロマン派のハイネが、「ドイツ・ロマン派」の中で、徹底的に批判を加えていますけれどね。
たとえばベルリオーズの「幻想交響曲」では、「一芸術家の生活の挿話」という標題が付いている。
ここから、次の時代の「歌曲」という詩に曲をつけた音楽が流行していきます。
その先駆けとなったのがシューベルトで、知的・古典的なゲーテの詩に、ウイーン古典派的色彩の強い曲をつけ、ドイツ・ロマン派の流れをつくりました。ゲーテの詩だけで70曲ほどの歌曲を作っています。
ゲーテの詩は、緻密で明晰な韻の構成があり、動詞の機能や計算しつくされた表象の結合、文の連結など、詩自体で完全な自立性があり音楽的な要素も兼ね備え、なにも付け加える必要などない完結したものです。(詩というのは本来がそういう表現形式です)
完璧といってよいゲーテの詩の言語構造に沿わせて、シューベルトは音楽的構造(音声的、意味的、感情的要素)を一致させる曲作りをしました。
そのような古典的で知性が勝るシューベルトに対して、文学青年だったシューマンは飽きたらず、魅力的な恋愛詩を書き始めた若きハインリッヒ・ハイネの詩に美しいメロディーを付与した歌曲を書き始めます。
ハイネは大人(たいじん)ゲーテを評して「ゲーテのすぐれた詩がもつ自立的な価値は否定しないが、ルーブルにある冷たい大理石の古代彫刻(ギリシャ彫刻)はゲーテの詩を思い出させる。ゲーテの詩も全く同様に "完成されたもの" であり、同様にすばらしく、同様に静かであるが、それは冷えて凝固し、今という時間の生き生きとした温もりのある生活から切り離されている。」と挑戦状をたたきつけている。(『ドイツ・ロマン派』)
まあ、ハイネの恋愛詩は青春文学であり、ゲーテ的な大人の詩は高尚すぎる純芸術と感じられたということだろう。シューマンとハイネの歌曲は、日常的な物語性を音楽的に表現したという特徴があります。
ドイツ語や英語はリズム的に見ると母音の強弱によって成立するのに対して、フランス語やイタリア語はシラブルといわれる「母音、あるいは母音+子音の組み合わせ」である音節の数で成立しています。
フランス歌曲は象徴主義詩人のヴェルレーヌらの詩に対応して、フランス印象派を形成していきました。
象徴主義詩人らは言葉の指示表出性である意味的な叙述よりも、言葉のリズムとハーモニーが喚起する自己表出的意味性を重視する。
上のメモ書き(マインドマップの左側の一部分ですので、右から左に枝分かれして行きます)でも分かるように、ヴェルレーヌの詩にはドビッシーやフォーレが競うように曲をつけていますし、ドビッシーはマラルメの詩にも曲をつけています。
ドビッシーは長調や短調という調性の縛りを解き放ち、繁茂な転調から、さらには多調性音楽への道を切り開き、ストラビンスキーや、無調性音楽のドイツ表現主義の先駆けとなります。
このような西洋クラシック音楽の歴史を見てみると、歌曲は第一級の詩人の詩に作曲家が創作意欲を刺激され曲を付け始め、やがてシューベルトにいたっては詩の音楽的要素が彼の音楽の実体と化すまで結びついた、という経緯があるわけですね。
歌曲になった詩は本来が詩自体で完結・自立しており、曲は後からつけられたものであるから、元となった詩の芸術的価値を損なうような曲作りはNo good.だという文化的な了解が欧米には存在しているということがあります。
しかるに、ポピュラー音楽というのはその出発点からして、芸術的な表現として作られているのではなく、商業ベースで「売れる」という価値観で作られていますから、歌曲やオペラとは全く別な音楽なのですね。
わたしが「ファン意識のマーケティング」で分析したように、マーケットの一番需要の大きい領域をターゲットにして、音楽的ニーズ&ウオンツをさぐり出し、作詩・作曲の基準を設定していく。
その意味では、慶応大学の女学生が「作詞はマーケティングだと思っている」という話は全くその通りなのだと思う。作詩だけでなく、作曲・編曲も歌手のプロデュース&プロモーションも、全部がマーケティングなのです。
松本隆は、アメリカ人のようなプラグマティズム的思考には馴染んではおらず、詩人としての感性で作詩をしていると主張したいのかと思いますが、現実には自分自身の感性がマーケティングのアンテナとして無自覚的に働いている、ということなのでしょう。
歌手が歌うことを前提にして、商業音楽業界で作詞家としてやっているという環境を考えれば、それを無視した作詞などできるはずもない。
大衆の好みの平均値あるいはマクシマムなニーズ&ウオンツに応える歌詞を書いているということ自体が「マーケティングという、観音様の掌の上」(孫悟空が誤認した世界の果て)での営為なのだ、といってよい。
蛇足ながら付け加えておきますと、音楽は作る人たちと、演奏する/歌う人たち、鑑賞する人で成り立っていますけれど、鑑賞する態度にも主知的に理解する傾向と情緒的に受容する傾向がありますね。
これはあくまでも程度の問題であり、二種類の対立があるわけではない。
音楽学者の福井栄一郎先生が、「学生の中には、音楽は聞き流せばそれでよいのであって、学問として堅苦しく論じる必要はないのではないか」という素朴な疑問を持つ学生も少なくないことに気づいている」と書いています。
先生は「音楽の表面だけなでるのではなく、その裏に潜むそら恐ろしい奥行きの広さ深さを知ってもらいたい」と述べておられます。
歌謡曲ですから、ワーグナーのような際限なく広い世界はありませんけれど、自分の理解力のレベルでしか鑑賞できないということは自覚しておいた方がよい、と。わたしは現代詩の世界の人間ですから、やはり作詞の技に目がいく度合いは強くなります。
詩では、たとえば「てをには」のような、それ自体にほとんど意味のない助詞でさえ、高度な自己表出を担わされている場合があります。
まちぶせ解説などで、そういう部分を指摘していますけれど、そういう意味が分かっているか分かっていないかで、歌の意味性が大きく違ってくる。
分からない人は、枝葉末節な事を指摘すると感じるのでしょうが、歌詞を書いている者は「意味的な違いを明確にしているのに、誤読しているな」ということになるのですね。
それで、自己陶酔で聴いている人を(イヤフォンやヘッドフォンなどの)ヘッドセットをつけた猿、とか書いてしまったりしてますが、根が一言居士ですので申し訳ないなと思いまして、「サル」改め「ロマン派」と訂正しておきます。
若い人と大人、年寄りと年代的な感じ方が違ってきますから。
わたしは14歳の頃にゲーテを読み、20歳のころにハイネを読みましたから、完全に読む時を間違えているという経験があります。逆でなければいけなかったのですけどね。
大人になっても自己陶酔的鑑賞しかできない方は、ただのロマン派ではなく、ドイツ・ロマン派とでも。
自分自身ロマン派のハイネが、「ドイツ・ロマン派」の中で、徹底的に批判を加えていますけれどね。
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