山上路夫が描く男目線の「愛が引き潮」表現、セクシー路線版。山上路夫としてはまみれ系は苦手でしょう。意に反する。良くも悪くも、山上の歌詞ですが、石川ひとみ的ではない。
石川ひとみ『人形が見てる』(1981.07.21 LP【まちぶせ】収録)
作詞:山上路夫/作曲:佐瀬寿一/編曲:渡辺茂樹
以前「プロデュース問題」で取り上げた記事が消えてしまいましたので、別の観点で書いておきます。
作曲であれ、作詞であれ、どのような表現もそれ以前に表現したものを踏まえた上で表現されていく。
その辺をしっかりと把握せずに、その部分だけを取り上げて解釈しようとすると誤読になりかねません。
この「人形が見てる」は山上路夫らしくない歌詞ではあるのだけれど、やはり山上の歌詞だなという危うさを感じるバランスで成り立っています。
前の記事では「セクシー路線ギリギリ表現」と評しました。

作曲であれ、作詞であれ、どのような表現もそれ以前に表現したものを踏まえた上で表現されていく。
その辺をしっかりと把握せずに、その部分だけを取り上げて解釈しようとすると誤読になりかねません。
この「人形が見てる」は山上路夫らしくない歌詞ではあるのだけれど、やはり山上の歌詞だなという危うさを感じるバランスで成り立っています。
前の記事では「セクシー路線ギリギリ表現」と評しました。

この曲がLP『まちぶせ』に収録されている、ということにご注意下さい。渡辺晋のセクシー路線、大号令がここに表れている、ということですね。
山上は淡々とモノトーンで表現していて、読んで字のごとしですけれど、あえて彩色を施してイメージを明確にしますと...
私の躰の上であなたが果てた時、私が目を開けたら揺り椅子にあるお人形さんと目が合ってしまった...
見られていたようで恥ずかしいから、目を閉じている間にあっちを向いてちょうだい...
いかにも女の子っぽい自己中な表現ですけれど、そもそもこのような自意識過剰な心性は自己を対象化して見る男の意識ですね。
その点、女の子は無意識過剰なものです。
それは別にここでは問題ではありません。でも、
一週間に一度か二度は...って、あからさまだよね。
またまた私は(目眩く性の渦潮に)溺れていくわー。
雲の上にいるような絶頂感は、あなたが教えてくれたのよ、ってか...。
これ、畑中葉子ちゃんの歌じゃない?よね...?
それで、あなたの気持ちが冷めていくのを、「私」は...
「体で分かる」のかい。
肉体派なんだね...。
「またまた私は 許してしまう」って、何を?
別れがくるのを許してしまう、というのなら、何人もの男がそうやって自分の体を通り過ぎていった、という意味になるし...
意味的喩だと考えれば、彼が再度の行為に及ぶのを許してしまう、と。
今がいいならそれでいいとは、ちょっと刹那主義的じゃないのかなァ?
えぐい歌だね...『まちぶせ』のひとみちゃん、清純イメージぶちこわしだ。 (ー_ー;)
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
...というのは、生半可な理解の仕方なのでしょう。
これまでに見てきたように、山上路夫は『恋』を書いて、悔いない今を生きる、という仏教的あるいは実存哲学的人生観を提示しています。
そこまで言い切ってしまえば、
Dance!Dance! While you can. 踊れる時は 踊る(ことに徹する)べし
エッチすべき時はそうすべし
......
死ぬ時は、ただ死ぬべし、とか。
今がいいならそれでいいと思いを定め、今を生きよ。後先のことを思い煩って、何になろうか。
...という、決然たる態度が背後にあることは容易に察せられます。禅宗の僧のようだな。
(禅僧が鰻屋の前を通りかかった時、蒲焼きの匂いが漂っていた。僧は「旨そうな匂いだな」とつぶやく。
付き従う小坊主が師に追いすがり、戒律を守る師があのようなことを口にして良いのでしょうか?と問う。
師は「馬鹿者、あれはあの時の思い、今は今の思いのみ」と応えた、という)
仏教的悟りの境地まで行って、日常性の中に戻ってきた(還相)の諦観表現と、
若い女の感情に引きずられた(往相の)刹那主義的気持ちのありようと、
両方が「今がいいなら、それでいい」という同じ言葉で言い表されている、わけです。
同じ言葉を口にしても、両者の間には千里の径庭が厳然と存在しているのだね。
山上路夫は、醒めたまなざしでこのセクシー路線の歌詞を書いている。
それを示唆しておきたいのだろう、アルフレッド・ヒッチコックばりの仕掛けを仕込んでいます。
山上はさり気なくメタファーを使うので、気づきにくいと思いますが、
「ゆりいすの上で 人形が見てる」という最後のフレーズですね、
これは、たとえばモデルハウスなんかの写真で、何か殺風景なので揺り椅子にお人形さんを置いたりする演出がありますが、そういう感じがするな。
いかにも人為的で、不自然という感じがします。生活のにおいがしない光景。
生活をしていると、揺り椅子に座ろうとするたびに人形をどけなければならない。そういうことを何度かやるうちに、面倒なので棚の上とか定位置に置かれるだろう。それが生活者の視点であり、自然なはず。
そのような「生活の匂いがしない作為的に飾られた感じ」を歌詞の中に入れていますけれど、
それによって「フィクションなのだけど...」という虚構的なイメージを感じ取ることができるだろう。
このフィクション的雰囲気をさらに増幅しているのが「暗闇の中で 人形が見てる」というリフレインだね。
リアリズムでいくならば「薄闇の中で」となるべきではないかな。
寝室には一般的に見られる仄かな光源があれば、人形と目を合わせることもあるだろう。
けれども暗闇であっては、目が合ったというのではなく、見られている気がするという幻想性になる。
山上路夫がこの一連の虚構的表現で表したかったものは何なのだろうか?
ごく普通に解釈すれば、ちょっとシュールな恐怖感ということになるのだろうけども、もっと別の意味もあるなと思う。
フィクション的なイメージを醸し出すことによって、この歌の「私」=石川ひとみではない、ということを明示的にしておきたかったのだと、私は推測するけどね。
要するに、最初に示した生半可な理解(=誤解)を避けたいという、山上流の「セクシー路線に対する表現者としての矜恃」だろう。
(なぜ、そういう断定ができるのかというと、詩を書いている者なら誰でも出会う「(戦争賛歌を書いた)詩人たちの戦争責任問題ということを通過してきているからだ、と。)
山上は19歳の石川ひとみがセクシー路線に馴染まないことを分かっているので、あえてフィクション的イメージを土台にして、身も蓋もないあからさまな表現を素っ気なく乗せて、「きちんと読めば戯れ言なのさ」という表現にしたのでしょう。
石川ひとみセクシー路線を否定する立場にはない山上路夫、それに無定見に付和雷同することなく、きっちりと距離を置きつつセクシー路線のごとき歌詞を書いてみせた、と。
プロフェショナルな作詞家であり、ヒューマニストといわれる山上のギリギリ表現であることは、間違いない。
それで、この「ゆりいすの上の人形」とは、実は対自的に(自意識をもって)自分自身を見つめている「私」を表象しているのでしょうね。
「ゆりいす」とは、エッチの最中に揺れるベッドと同じという意味喩になっており、それを受けた...
「ゆりいすの上の人形」はもう一人の(対自的意識をもって見ている)私、という意味喩になっている。その私は、不安定な揺り椅子=不安定な関係性にあって、気持ちが揺れているわ、と。
ですから、「人形が見てる」という表現は、表現上の物語的事実であり、
本当は「離見の見」とでもいうべきまなざしを表現しているのだ、と。
そして、その人形は揺り椅子の上に置かれることにより、揺れる気持ちを意味喩として表現している。
ヒッチコック監督は自分を映画の中でチラ見せさせましたが、
山上は歌詞の中に自分の醒めた視線を示唆させているな、
...と解釈したいところです。
この詩を書いた時山上路夫は45歳。
女の子に精神性を求めるような幻想など持たない年齢だといってよい。
「体で分かるの」と、ずばり言ってしまう。
オヤジ的に醒めている、という感触をこの表現に感じる。
セクシー路線で書いてはいるものの、エロス的には素っ気ない歌詞という印象だよね。
一見セクシー路線だけれども、エロでもグロでもない、山上路夫的「愛が引き潮」表現なのだな、と思う。
(けれども、普通はエロい歌だとしか、誰も思わない。それが「プロデュース問題」になるのだけどね)
【追記】
渡辺茂樹の編曲、切れのあるリズムで演歌的情感とはほど遠い音作りをしていて、ドライに仕上がっているのがいいですね。
葦沢聖吉「つぶやき」を想い出しました。同じような意図を感じます。
それで、イントロで鈴の音が左から右に回り込むように聞こえる効果音ですけれど、私も昔これと同じ効果音をプロデュースしたことがあったのを想い出しました。
それはある施設の龍神像を設置してある部屋の音響効果なのですが、
柏手(かしわで)を打つと、センサースイッチがONになり、
龍のうなり声が参拝者の頭上を回転して天井(あるいは天空)に駆け上がる、という演出でした。
シンセサイザーの技術者に依頼してイイものができたのですけれど、人が驚くということで不採用になってしまいました。それぐらいのことをやらないと話題にはならないのですが、ハイテク啼き龍。
東照宮の啼き龍が少しもそれらしくないので、あれの上をいくものをと、思いついたのですけど。
山上は淡々とモノトーンで表現していて、読んで字のごとしですけれど、あえて彩色を施してイメージを明確にしますと...
私の躰の上であなたが果てた時、私が目を開けたら揺り椅子にあるお人形さんと目が合ってしまった...
見られていたようで恥ずかしいから、目を閉じている間にあっちを向いてちょうだい...
いかにも女の子っぽい自己中な表現ですけれど、そもそもこのような自意識過剰な心性は自己を対象化して見る男の意識ですね。
その点、女の子は無意識過剰なものです。
それは別にここでは問題ではありません。でも、
一週間に一度か二度は...って、あからさまだよね。
またまた私は(目眩く性の渦潮に)溺れていくわー。
雲の上にいるような絶頂感は、あなたが教えてくれたのよ、ってか...。
これ、畑中葉子ちゃんの歌じゃない?よね...?
それで、あなたの気持ちが冷めていくのを、「私」は...
「体で分かる」のかい。
肉体派なんだね...。
「またまた私は 許してしまう」って、何を?
別れがくるのを許してしまう、というのなら、何人もの男がそうやって自分の体を通り過ぎていった、という意味になるし...
意味的喩だと考えれば、彼が再度の行為に及ぶのを許してしまう、と。
今がいいならそれでいいとは、ちょっと刹那主義的じゃないのかなァ?
えぐい歌だね...『まちぶせ』のひとみちゃん、清純イメージぶちこわしだ。 (ー_ー;)
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
...というのは、生半可な理解の仕方なのでしょう。
これまでに見てきたように、山上路夫は『恋』を書いて、悔いない今を生きる、という仏教的あるいは実存哲学的人生観を提示しています。
そこまで言い切ってしまえば、
Dance!Dance! While you can. 踊れる時は 踊る(ことに徹する)べし
エッチすべき時はそうすべし
......
死ぬ時は、ただ死ぬべし、とか。
今がいいならそれでいいと思いを定め、今を生きよ。後先のことを思い煩って、何になろうか。
...という、決然たる態度が背後にあることは容易に察せられます。禅宗の僧のようだな。
(禅僧が鰻屋の前を通りかかった時、蒲焼きの匂いが漂っていた。僧は「旨そうな匂いだな」とつぶやく。
付き従う小坊主が師に追いすがり、戒律を守る師があのようなことを口にして良いのでしょうか?と問う。
師は「馬鹿者、あれはあの時の思い、今は今の思いのみ」と応えた、という)
仏教的悟りの境地まで行って、日常性の中に戻ってきた(還相)の諦観表現と、
若い女の感情に引きずられた(往相の)刹那主義的気持ちのありようと、
両方が「今がいいなら、それでいい」という同じ言葉で言い表されている、わけです。
同じ言葉を口にしても、両者の間には千里の径庭が厳然と存在しているのだね。
山上路夫は、醒めたまなざしでこのセクシー路線の歌詞を書いている。
それを示唆しておきたいのだろう、アルフレッド・ヒッチコックばりの仕掛けを仕込んでいます。
山上はさり気なくメタファーを使うので、気づきにくいと思いますが、
「ゆりいすの上で 人形が見てる」という最後のフレーズですね、
これは、たとえばモデルハウスなんかの写真で、何か殺風景なので揺り椅子にお人形さんを置いたりする演出がありますが、そういう感じがするな。
いかにも人為的で、不自然という感じがします。生活のにおいがしない光景。
生活をしていると、揺り椅子に座ろうとするたびに人形をどけなければならない。そういうことを何度かやるうちに、面倒なので棚の上とか定位置に置かれるだろう。それが生活者の視点であり、自然なはず。
そのような「生活の匂いがしない作為的に飾られた感じ」を歌詞の中に入れていますけれど、
それによって「フィクションなのだけど...」という虚構的なイメージを感じ取ることができるだろう。
このフィクション的雰囲気をさらに増幅しているのが「暗闇の中で 人形が見てる」というリフレインだね。
リアリズムでいくならば「薄闇の中で」となるべきではないかな。
寝室には一般的に見られる仄かな光源があれば、人形と目を合わせることもあるだろう。
けれども暗闇であっては、目が合ったというのではなく、見られている気がするという幻想性になる。
山上路夫がこの一連の虚構的表現で表したかったものは何なのだろうか?
ごく普通に解釈すれば、ちょっとシュールな恐怖感ということになるのだろうけども、もっと別の意味もあるなと思う。
フィクション的なイメージを醸し出すことによって、この歌の「私」=石川ひとみではない、ということを明示的にしておきたかったのだと、私は推測するけどね。
要するに、最初に示した生半可な理解(=誤解)を避けたいという、山上流の「セクシー路線に対する表現者としての矜恃」だろう。
(なぜ、そういう断定ができるのかというと、詩を書いている者なら誰でも出会う「(戦争賛歌を書いた)詩人たちの戦争責任問題ということを通過してきているからだ、と。)
山上は19歳の石川ひとみがセクシー路線に馴染まないことを分かっているので、あえてフィクション的イメージを土台にして、身も蓋もないあからさまな表現を素っ気なく乗せて、「きちんと読めば戯れ言なのさ」という表現にしたのでしょう。
石川ひとみセクシー路線を否定する立場にはない山上路夫、それに無定見に付和雷同することなく、きっちりと距離を置きつつセクシー路線のごとき歌詞を書いてみせた、と。
プロフェショナルな作詞家であり、ヒューマニストといわれる山上のギリギリ表現であることは、間違いない。
それで、この「ゆりいすの上の人形」とは、実は対自的に(自意識をもって)自分自身を見つめている「私」を表象しているのでしょうね。
「ゆりいす」とは、エッチの最中に揺れるベッドと同じという意味喩になっており、それを受けた...
「ゆりいすの上の人形」はもう一人の(対自的意識をもって見ている)私、という意味喩になっている。その私は、不安定な揺り椅子=不安定な関係性にあって、気持ちが揺れているわ、と。
ですから、「人形が見てる」という表現は、表現上の物語的事実であり、
本当は「離見の見」とでもいうべきまなざしを表現しているのだ、と。
そして、その人形は揺り椅子の上に置かれることにより、揺れる気持ちを意味喩として表現している。
ヒッチコック監督は自分を映画の中でチラ見せさせましたが、
山上は歌詞の中に自分の醒めた視線を示唆させているな、
...と解釈したいところです。
この詩を書いた時山上路夫は45歳。
女の子に精神性を求めるような幻想など持たない年齢だといってよい。
「体で分かるの」と、ずばり言ってしまう。
オヤジ的に醒めている、という感触をこの表現に感じる。
セクシー路線で書いてはいるものの、エロス的には素っ気ない歌詞という印象だよね。
一見セクシー路線だけれども、エロでもグロでもない、山上路夫的「愛が引き潮」表現なのだな、と思う。
(けれども、普通はエロい歌だとしか、誰も思わない。それが「プロデュース問題」になるのだけどね)
【追記】
渡辺茂樹の編曲、切れのあるリズムで演歌的情感とはほど遠い音作りをしていて、ドライに仕上がっているのがいいですね。
葦沢聖吉「つぶやき」を想い出しました。同じような意図を感じます。
それで、イントロで鈴の音が左から右に回り込むように聞こえる効果音ですけれど、私も昔これと同じ効果音をプロデュースしたことがあったのを想い出しました。
それはある施設の龍神像を設置してある部屋の音響効果なのですが、
柏手(かしわで)を打つと、センサースイッチがONになり、
龍のうなり声が参拝者の頭上を回転して天井(あるいは天空)に駆け上がる、という演出でした。
シンセサイザーの技術者に依頼してイイものができたのですけれど、人が驚くということで不採用になってしまいました。それぐらいのことをやらないと話題にはならないのですが、ハイテク啼き龍。
東照宮の啼き龍が少しもそれらしくないので、あれの上をいくものをと、思いついたのですけど。
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