ひとみちゃん歌手活動中断前の最後の歌謡曲。芸能界での人気という呪縛を離れ、素直に自然に歌を歌っていこうと変身した象徴的な歌と言ってよいでしょう。
石川ひとみ 「秘密の森」(1986/4/5) 作詞:岩室先子、作曲・編曲:山田直毅
本来は声を張り上げて歌う熱唱型だった歌手石川ひとみが、力みを完全に捨ててごく自然に歌っています。
濃い口紅や不自然なほほ紅といった、人為的演出をやめてしまったことを考えると、自然体ということなのでしょう。でも薄いピンク系の口紅はさしているようです。
舞台に出てくる時の歩き方も、以前のように背筋を立ててスッスッと歩くのではなく、司会者の時のような雰囲気ですね。ローヒールの靴をはいているせいなのか分かりませんが、自然に歩いている。
石川ひとみ自身の言葉で言うと、素直に自分らしく、自然にありのままに、ということらしいのですが、ファンあっての人気商売である歌手ですから、思い切ったリセットだといってよい。
ファン受けを気にするよりも、自分の歌いたい歌を、ありのままに聴いて見て欲しい、と。
石川ひとみ 『秘密の森』 (レッツゴーヤング)
この年までひとみちゃん(と太川陽介)が司会をしていた「レッツゴーヤング」は、リズミカルなサウンドとダイナミックな踊りで、観客も熱気があふれていましたから、この舞台で「秘密の森」はあまり受けなかったでしょうね。
もう、そういうことから吹っ切れてしまったかの感があります。内面的な変化があったようです。
石川ひとみ、26歳ですが、少女のままの気持ちをずいぶんと残していたのではないかな。
彼女自身、「大人ぶったりプロぶったりしたくない」という気持ちになったそうですから、歌うことがただ好きだった少女時代の原点に立ち返った、ということなのでしょう。
長岡和弘が「秘密の森」について、
「この頃はもうレコーディング自体ポニーキャニオンじゃなくて渡辺音楽出版の方でやってたんですよ。
ディレクターの仕事自体も大きく変わってきてたね。
音を作るにしても、ディレクターが「こんな風にして」っていうんじゃなく、アーティストやアレンジャーがΓこういう音を作りたい」っていうのを整理するのが主な仕事になってくる。」
なるほど、そのような音楽業界の時代的背景の変化があって、石川ひとみやアレンジャー山田直樹らの選択として、この歌が生まれたわけですね。プロデュースの責任は、石川ひとみ自身の問題になる、ということになる。
歌手の総合プロデューサーだった渡辺晋は、9ヶ月後に亡くなっていますから、渡辺プロダクションの舵取りが大きく変わったのでしょう。
この流れを整理してみると、
歌手石川ひとみは、新人歌手なりのプロ意識を持って、与えられた歌を一生懸命歌った。
そうしていくうちに、バンドのメンバーや長岡和弘らミュージシャンとのふれあいの中で、アマチュアリズム的な考えになじんでいきます。
それはひとことで言いますと「自分が好きな歌を歌う(べき)」という方向性です。
シンガーソングライターのように最初から好きな歌を歌っているわけではないアイドルとしてはごく当然でしょうね。
ここでひとつ、一女性としての石川ひとみにプレッシャーというか悩ましさをもたらしていることが「精神的な自立」の問題なのではないか、と思う。
最近、昔のビデオを引っぱり出して、ちょっと見てしまったんです。
もちろん、わたしの歌っている番組なんだけど、いろいろ考えてしまいました。
「もっと自然に笑えばいいのに...」とか、「自分らしさが全然出てないなあ」とか...。
すごく客観的に見られるのが自分でも不思議だったけど、それだけに「ウーン、まだまだダメだー」と思っちゃった。
友達にもよく言われるけど、わたしは不器用だから、ひとつのことを納得したり、やりとげるのに人の倍以上がかかっちゃうんじゃないかって、時々思っちゃう。
別に自信をなくすとか、劣等感に陥るとかそんな深刻なんじゃないけれどね。
わたしはわたし、今年もマイペースでやりたいですね。
自分のできる範囲内で、歌でも何でもバリエーションをもたせて楽しくやってゆきたいって、ビデオをみながら考えました。
この文章に見られるのは、ごく自然に振る舞えていない「私」の問題ですね。
筋金入りのよい子、ひっちゃんの筋金とはどんなものかと言いますと、ご両親から受け継いだ精神的な規範だと。
よい子というのはわたし的に定義しますと、「他者の価値観を自分の価値観として受け容れる、まだ自立していない子」ということです。他者というのは、ほとんどが親ということになりますけれど...


ひっちゃんのかわいさはこの母親譲りであり、プロ意識は父親の倫理観みたいなものがもたらしているのではないかと想像されます。
父親は諭す人、母親は見守る人、という伝統的日本の家庭を崩してはいない光景ですね。
ひとは誰でも心の中に女性性の要素と男性性の要素をもっていますが、精神的に自立していくということは社会に適応していくためのプロセスですね。
社会というのは基本的に男性原理を共同規範として成立していますので、女性性の特質である「かわいらしさ、細やかな思いやりや愛情、喜怒哀楽の感情表現、人間的な暖かみ、感情がらみの思考、などなど」が排除されます。
特に企業などに勤めると、女性も男化して張り合っていかないといけない。
心理学では、精神的な自立はそのような(男性女性両方が持っている)女性性(の領域)が傷つくことによって促される、とみています。
そういうものを否定されたり、排除されることで、そのような気持ちを心の奥深くにしまい込むか、あるいは慣れてしまうことによって感受性を鈍くしていく。それが自立のプロセスなのだ、と。
男の場合は、男は男らしくという規範によって、幼少期から男として育てられるということがある。
女の子の場合は、女らしくという規範があるために、女性性が傷つくのは社会に出てからということになるので、この問題に突き当たるのが遅くなる。
このように、アレルギーの減感作療法のようなプロセスが、心にもあるということです。
これは、その人が内向的であるか、外向的であるかという程度の違いによって、自分の内面世界を構築するのか、世間ずれしていくのか、という違いになるのでしょう。
男性は心に傷を負うと自分の世界に閉じこもるという方向に向かいやすい。
それで、心にバリアを張るわけですが、男っぽい性格と自認するひっちゃん、心の奥に「少女的世界」を築いて、それを守り続けていたのだと思う。
これは別のブログで述べているのですが、脳の男女差が明瞭になっていくのは4歳から18歳くらいまでの間だそうです。
両親にかわいがられて育ち、学校に行けばかわいいと好かれ、芸能界に入ってもかわらしさで人気があり、それが石川ひとみの性格的なもの、言い換えれば自然性となっているのでしょう。
ひとの性格というのは、習い性の要素が大きい、と私は考えています。
芸能界は虚構と現実が入り交じった「イメージングの世界」ですから、演出と本音との区別がつきにくいという特殊な事情もあります。
ところが、年相応の歌も歌いたいし、そういう歌を歌える大人の女になっていくためには、自分のアイドルイメージ打ち破りたい思いもある。
このへんの葛藤についてひっちゃんは「ネコをかぶっていた」と大胆発言をしているのですが、ユング心理学が言うところのペルソナと対峙しているということでしょうね。正直なひとみちゃんですからね、松田聖子ならば絶対にしない発言だな。
ひとは社会に出ると求められる役割に応じたイメージをセルフプロデユースしていきます。それが、社会で上手くゆく、成功する対処法となる。
ユングはこれを、ギリシャ語で仮面という意味のペルソナと呼んだ。
ひっちゃんはこれをネコをかぶると、マイナスのイメージで捉えている。言ってみれば、子どもの考えだね。
ところが、人が成熟していくということは複雑な社会的役割を理解して、それに見合ったペルソナを担うということであり、それによって社会における自分のポジショニングを確保する。
そして大人になっていくことと引き替えのように、子供の頃のおとぎ話を一つ一つ失っていくわけです。
それが、実は成熟するということなのですね。
しかし...
石川ひとみはどうにもそれに自分らしくないものを感じてしまう。
ファンからも支持されず、曲はヒットしない。
ひっちゃん、童顔なのがいけないのね、というようなことをファンインタビューで述べています。
はっきり言えば、かわいらしすぎるので、大人の歌が似合わないという贅沢な悩みだな。
「本当に大人のムードを持った女性の歌手が『秘密の森』みたいな可愛い曲を歌ったら、ホントにカッコイイですけれどね。」
越路吹雪とか岸洋子とか?
それでいろいろ悩むわけですけれど、結局、自分にとって一番自然であると思われる道を石川ひとみは選択したのでしょう。
それがありのまま、ということですね。
私が稽古をした新体道の創始者である青木宏之師範は、自然体こそ最強の構えだと喝破しました。
これ以上のものはない、という姿勢です。相撲で言うと、無敵の横綱大鵬が自然体と言われました。
けれども、1986年『秘密の森』、石川ひとみは27歳、
アイドルとしてはトウがたっているし、かわいいと言われ続けた容色も衰えを見せてきている。
写真集の出版は記念の意味もあるし、かわいい路線にけりをつけるという意味もあるでしょう。
それで、自分本来の姿と歌を打ち出していこうと。
「例えば、小さなことだけど、みんな他の歌手の人は、爪をきれいに伸ばして、マニキュアをして飾っているでしょう。
でもわたしは、お台所仕事が好きだから、このままでいましょうって。
とりあえず今はこの爪でいいやって。
大人ぶったり、プロぶったりしたくないという気持ちですね。」
それが、『秘密の森』ということなのでしょう。
歌を歌うよりも、詩を書くことよりも、絵を描くことよりも、生活していくことの方が重い、と。
実は、このような考えあるいは思想といってよい、そういうものを通過してなおかつ自分は歌うんだ、詩を書かずには生きられない、絵を描くことが自分にとって生きるということなのだ、というものがなければプロフェッショナルな表現とは言えないのだと思う。
私は以前、プロとして出発した石川ひとみが「心はアマチュア、歌はプロ」というスタイルに変容して行ったと書きましたが、本当はそうでない。
世間ずれすることが容易に出来ない石川ひとみ、彼女なりに思い悩み格闘した軌跡が『秘密の森』に凝集されているのだと、私は理解したいなと思う。
私が初めてこの曲をYouTub で視聴した時の印象は、まさにこの通りだなと、改めて思います。
一瞬で、そういうものが伝わってきます。
歌って、その人が持っているものすべてが表れてしまうのだな、と驚きますね。
ただ、もっと深いものがあるのに(理解されない)というひとみちゃんの思いが宙ぶらりんのまま、誰も受け止め、汲みとっていないなと思うので、このサイトで石川ひとみ『秘密の森』にもっとも多くのページを費やしました。
濃い口紅や不自然なほほ紅といった、人為的演出をやめてしまったことを考えると、自然体ということなのでしょう。でも薄いピンク系の口紅はさしているようです。
舞台に出てくる時の歩き方も、以前のように背筋を立ててスッスッと歩くのではなく、司会者の時のような雰囲気ですね。ローヒールの靴をはいているせいなのか分かりませんが、自然に歩いている。
石川ひとみ自身の言葉で言うと、素直に自分らしく、自然にありのままに、ということらしいのですが、ファンあっての人気商売である歌手ですから、思い切ったリセットだといってよい。
ファン受けを気にするよりも、自分の歌いたい歌を、ありのままに聴いて見て欲しい、と。
石川ひとみ 『秘密の森』 (レッツゴーヤング)
この年までひとみちゃん(と太川陽介)が司会をしていた「レッツゴーヤング」は、リズミカルなサウンドとダイナミックな踊りで、観客も熱気があふれていましたから、この舞台で「秘密の森」はあまり受けなかったでしょうね。
もう、そういうことから吹っ切れてしまったかの感があります。内面的な変化があったようです。
石川ひとみ、26歳ですが、少女のままの気持ちをずいぶんと残していたのではないかな。
彼女自身、「大人ぶったりプロぶったりしたくない」という気持ちになったそうですから、歌うことがただ好きだった少女時代の原点に立ち返った、ということなのでしょう。
長岡和弘が「秘密の森」について、
「この頃はもうレコーディング自体ポニーキャニオンじゃなくて渡辺音楽出版の方でやってたんですよ。
ディレクターの仕事自体も大きく変わってきてたね。
音を作るにしても、ディレクターが「こんな風にして」っていうんじゃなく、アーティストやアレンジャーがΓこういう音を作りたい」っていうのを整理するのが主な仕事になってくる。」
なるほど、そのような音楽業界の時代的背景の変化があって、石川ひとみやアレンジャー山田直樹らの選択として、この歌が生まれたわけですね。プロデュースの責任は、石川ひとみ自身の問題になる、ということになる。
歌手の総合プロデューサーだった渡辺晋は、9ヶ月後に亡くなっていますから、渡辺プロダクションの舵取りが大きく変わったのでしょう。
この流れを整理してみると、
歌手石川ひとみは、新人歌手なりのプロ意識を持って、与えられた歌を一生懸命歌った。
そうしていくうちに、バンドのメンバーや長岡和弘らミュージシャンとのふれあいの中で、アマチュアリズム的な考えになじんでいきます。
それはひとことで言いますと「自分が好きな歌を歌う(べき)」という方向性です。
シンガーソングライターのように最初から好きな歌を歌っているわけではないアイドルとしてはごく当然でしょうね。
ここでひとつ、一女性としての石川ひとみにプレッシャーというか悩ましさをもたらしていることが「精神的な自立」の問題なのではないか、と思う。
最近、昔のビデオを引っぱり出して、ちょっと見てしまったんです。
もちろん、わたしの歌っている番組なんだけど、いろいろ考えてしまいました。
「もっと自然に笑えばいいのに...」とか、「自分らしさが全然出てないなあ」とか...。
すごく客観的に見られるのが自分でも不思議だったけど、それだけに「ウーン、まだまだダメだー」と思っちゃった。
友達にもよく言われるけど、わたしは不器用だから、ひとつのことを納得したり、やりとげるのに人の倍以上がかかっちゃうんじゃないかって、時々思っちゃう。
別に自信をなくすとか、劣等感に陥るとかそんな深刻なんじゃないけれどね。
わたしはわたし、今年もマイペースでやりたいですね。
自分のできる範囲内で、歌でも何でもバリエーションをもたせて楽しくやってゆきたいって、ビデオをみながら考えました。
この文章に見られるのは、ごく自然に振る舞えていない「私」の問題ですね。
筋金入りのよい子、ひっちゃんの筋金とはどんなものかと言いますと、ご両親から受け継いだ精神的な規範だと。
よい子というのはわたし的に定義しますと、「他者の価値観を自分の価値観として受け容れる、まだ自立していない子」ということです。他者というのは、ほとんどが親ということになりますけれど...

ひっちゃんのかわいさはこの母親譲りであり、プロ意識は父親の倫理観みたいなものがもたらしているのではないかと想像されます。
父親は諭す人、母親は見守る人、という伝統的日本の家庭を崩してはいない光景ですね。
ひとは誰でも心の中に女性性の要素と男性性の要素をもっていますが、精神的に自立していくということは社会に適応していくためのプロセスですね。
社会というのは基本的に男性原理を共同規範として成立していますので、女性性の特質である「かわいらしさ、細やかな思いやりや愛情、喜怒哀楽の感情表現、人間的な暖かみ、感情がらみの思考、などなど」が排除されます。
特に企業などに勤めると、女性も男化して張り合っていかないといけない。
心理学では、精神的な自立はそのような(男性女性両方が持っている)女性性(の領域)が傷つくことによって促される、とみています。
そういうものを否定されたり、排除されることで、そのような気持ちを心の奥深くにしまい込むか、あるいは慣れてしまうことによって感受性を鈍くしていく。それが自立のプロセスなのだ、と。
男の場合は、男は男らしくという規範によって、幼少期から男として育てられるということがある。
女の子の場合は、女らしくという規範があるために、女性性が傷つくのは社会に出てからということになるので、この問題に突き当たるのが遅くなる。
このように、アレルギーの減感作療法のようなプロセスが、心にもあるということです。
これは、その人が内向的であるか、外向的であるかという程度の違いによって、自分の内面世界を構築するのか、世間ずれしていくのか、という違いになるのでしょう。
男性は心に傷を負うと自分の世界に閉じこもるという方向に向かいやすい。
それで、心にバリアを張るわけですが、男っぽい性格と自認するひっちゃん、心の奥に「少女的世界」を築いて、それを守り続けていたのだと思う。
これは別のブログで述べているのですが、脳の男女差が明瞭になっていくのは4歳から18歳くらいまでの間だそうです。
両親にかわいがられて育ち、学校に行けばかわいいと好かれ、芸能界に入ってもかわらしさで人気があり、それが石川ひとみの性格的なもの、言い換えれば自然性となっているのでしょう。
ひとの性格というのは、習い性の要素が大きい、と私は考えています。
芸能界は虚構と現実が入り交じった「イメージングの世界」ですから、演出と本音との区別がつきにくいという特殊な事情もあります。
ところが、年相応の歌も歌いたいし、そういう歌を歌える大人の女になっていくためには、自分のアイドルイメージ打ち破りたい思いもある。
このへんの葛藤についてひっちゃんは「ネコをかぶっていた」と大胆発言をしているのですが、ユング心理学が言うところのペルソナと対峙しているということでしょうね。正直なひとみちゃんですからね、松田聖子ならば絶対にしない発言だな。
ひとは社会に出ると求められる役割に応じたイメージをセルフプロデユースしていきます。それが、社会で上手くゆく、成功する対処法となる。
ユングはこれを、ギリシャ語で仮面という意味のペルソナと呼んだ。
ひっちゃんはこれをネコをかぶると、マイナスのイメージで捉えている。言ってみれば、子どもの考えだね。
ところが、人が成熟していくということは複雑な社会的役割を理解して、それに見合ったペルソナを担うということであり、それによって社会における自分のポジショニングを確保する。
そして大人になっていくことと引き替えのように、子供の頃のおとぎ話を一つ一つ失っていくわけです。
それが、実は成熟するということなのですね。
しかし...
石川ひとみはどうにもそれに自分らしくないものを感じてしまう。
ファンからも支持されず、曲はヒットしない。
ひっちゃん、童顔なのがいけないのね、というようなことをファンインタビューで述べています。
はっきり言えば、かわいらしすぎるので、大人の歌が似合わないという贅沢な悩みだな。
「本当に大人のムードを持った女性の歌手が『秘密の森』みたいな可愛い曲を歌ったら、ホントにカッコイイですけれどね。」
越路吹雪とか岸洋子とか?
それでいろいろ悩むわけですけれど、結局、自分にとって一番自然であると思われる道を石川ひとみは選択したのでしょう。
それがありのまま、ということですね。
私が稽古をした新体道の創始者である青木宏之師範は、自然体こそ最強の構えだと喝破しました。
これ以上のものはない、という姿勢です。相撲で言うと、無敵の横綱大鵬が自然体と言われました。
けれども、1986年『秘密の森』、石川ひとみは27歳、
アイドルとしてはトウがたっているし、かわいいと言われ続けた容色も衰えを見せてきている。
写真集の出版は記念の意味もあるし、かわいい路線にけりをつけるという意味もあるでしょう。
それで、自分本来の姿と歌を打ち出していこうと。
「例えば、小さなことだけど、みんな他の歌手の人は、爪をきれいに伸ばして、マニキュアをして飾っているでしょう。
でもわたしは、お台所仕事が好きだから、このままでいましょうって。
とりあえず今はこの爪でいいやって。
大人ぶったり、プロぶったりしたくないという気持ちですね。」
それが、『秘密の森』ということなのでしょう。
歌を歌うよりも、詩を書くことよりも、絵を描くことよりも、生活していくことの方が重い、と。
実は、このような考えあるいは思想といってよい、そういうものを通過してなおかつ自分は歌うんだ、詩を書かずには生きられない、絵を描くことが自分にとって生きるということなのだ、というものがなければプロフェッショナルな表現とは言えないのだと思う。
私は以前、プロとして出発した石川ひとみが「心はアマチュア、歌はプロ」というスタイルに変容して行ったと書きましたが、本当はそうでない。
世間ずれすることが容易に出来ない石川ひとみ、彼女なりに思い悩み格闘した軌跡が『秘密の森』に凝集されているのだと、私は理解したいなと思う。
私が初めてこの曲をYouTub で視聴した時の印象は、まさにこの通りだなと、改めて思います。
一瞬で、そういうものが伝わってきます。
歌って、その人が持っているものすべてが表れてしまうのだな、と驚きますね。
ただ、もっと深いものがあるのに(理解されない)というひとみちゃんの思いが宙ぶらりんのまま、誰も受け止め、汲みとっていないなと思うので、このサイトで石川ひとみ『秘密の森』にもっとも多くのページを費やしました。
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